【自分だけが今を生きていない】

通っていた高校の校舎が取り壊しになると言う話を聞いた。その時は寂しいね、としか言わずすぐに忘れていたのだが、先日家で1人で酒を飲んでる時に、ふとGoogleマップで高校を調べてみた。


その瞬間、航空写真を見ただけで胸が締め付けられるのが分かった。

中学からの親友と通ったJRの駅からの通学路。当時の彼女と午前の授業をサボって遊んだ近くの公園。部活のペナルティで走らされたランニングコース。3年間汗を流したグラウンド。そして、今にも倒れそうなボロい校舎。


世に言う「エモい」感情に精神がやられてしまい、無意識に涙が溢れてしまった。

さらにストリートビューで写真を見ると、当時の思い出が次々と蘇ってきて、高校3年間にひとしきり思いを馳せた。


馳せた直後、寂しいとも悲しいでもない、とはいえ虚しいと呼ぶには少しライトな気持ちになった。

僕が顔を思い浮かべる当時の友人や先輩後輩、彼女、先生はちゃんと前に進んでいるのだろう。


だけれども、僕は頻繁に気持ちが過去に飛ぶ。

今に不満があるわけではない。1日1日を一生懸命に行き、お客様に喜ばれ、それなりに満足のいく待遇で働けている。だがそれだけだ。

未来に向かっている気がしないのだ。

そこから目を背けるように、大学時代や高校時代、果ては中学時代の思い出にまで思いを馳せる頻度が上がっていると思う。


SNSなどを見ると、中高の知り合いはもう結婚して子どももいて、今の人間関係の中で一生懸命生きているのが伝わってくる。

それを見ると、過去を振り返ってばかりで誰かを守ることも益を与えることもない、この人生は何なのかという気持ちにまでなってくる。


今すぐに死のうだなんて1ミリも思わないが、いつ死んでもいい、そのくらいの気持ちで生きているのだ。

【このどうしようもない孤独感や倦怠感を友として一生生きてゆくのだろうか。】

一流と言われる企業に勤め、コロナウイルスが蔓延するこんな状況でも安くない給料をもらい賞与も減額されることもなく、(仕事に対するストレスはすごいが)一定のやりがいを持って働いている。


友人にも恵まれている。自分で言うのもなんだが、好き勝手やっていても大抵の人間には好かれるので、人間性のバランスが取れているのだろう。


恋人は数年間いない。正直、欲しいとは思うものの、努力してまで欲しいとは思わず特段行動には移さない。たまに行動に移すと一定程度の需要がある、もといそれなりにモテることを確認し、一方で付き合いたいと思うような相手も見つからず、連絡を取り合う相手ができても結局恋人とはならずにすぐ疎遠になる。


1人の時間は嫌いではない。緊急事態宣言下なので出歩くことはほとんどないものの、家で映画を見たり漫画を読むことは好きだ。コロナウイルスが蔓延する前の世界でも一人で映画館に行ったり美味いものを食べに行ったり、おひとりさまを楽しむこともできる。


しかし、常に、なぜ生きる?という漠然とした問いが胸にある。明日死んでも構わないと思う。


自分が死ぬことで悲しんでくれる人はたくさんいるだろう。両親、兄弟、親戚、多くの友人、上司、同僚。葬式に出席してくれる人は100人は降らないと思う。

しかし、自分が死ぬことで困る人や生き方が変わるような人は1人もいない。


必要とされないわけではないが、いなくなっても誰にも影響を与えない存在。自分のことをそのように考えている私のような人は世の中に沢山いるのだろうなとも思う。


なぜ生きる?

生きること自体に意味がある?

さっぱりわからない。


このまま生きていても良いが、何もなければ10年後には自死を選ぶのだろうと思う。

そろそろ遺書でも書こうか。